◎信心は智恵でもなければ学問でもない。此方の道は喜びで開けた道ぢゃから喜びでは苦労はさせぬと仰せられる教祖の信心は喜び一つで無学でも人が助かる道である。しかもいくら良い信心をしています、喜んでいますと言うても、苦に苦が重なるような九十九節から子孫繁盛、家繁盛に枝も栄える葉も繁るという百節のおかげの世界。神様の願いと私共人間氏子の願いが同時に成就するようなおかげを頂く為に、喜びだけでは成就しない。もう一段信心の内容が喜びに喜んで、そこに勇みが伴うという信心でなければならない。
親先生御修行時代には、四百四病の病より貧より辛いものはないと言われるようなところも通られた。重い足をひきづる様にして神様の指図通りに借金の断わりに行かれていたある日、翻然と神様にかけられる大きな願いに気付かれ、銀行に金でも預けに行くような生き揚々とした、喜び勇む心で行からた所「大坪さんもうよかばの、あんたの出来た時に払うて下さい」というおかげになったというように。そういう信心によって、現在無学でも合楽で沢山の人が助かっているというような実証を現わしているのである。
合楽理念は一切神愛の世界を説く、一切を喜びで受けて行くことが出来る手立てをあらゆる角度から説く。だから合楽で信心の稽古をしている人なら例えお願いしていた試験が不合格になっても、不合格御礼も出来るけれど。そこに本当は合格した方が良いという心がありはしないだろうか。いよいよ自由自在に有難い方へ有難い方へと心を使うていける、修行の第一、くノ一修行に本気で取り組み喜び勇む心で九十九節から百節の峠を越えて合楽世界に住まわせて頂かねばならない。
昭和五十六年八月三十一日 朝の御理解
X御理解 第九十九節 無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなけれれば、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学があっても難儀をしておるものがある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。
信心というのは知恵力とか学問とかというものではない。氏子の真から、真心の信心をさしてもろうて無学でも人が助かっておると教祖が仰る。無学でも人が助かったのは、教祖の神様の云うなら信心の喜び。此方の道は喜びに喜んで開けた道ぢゃからと仰せられとる、ね。だから喜びには学問があるとかないとか、智恵が多いとか少ないとかといったようなことは関わりがない。ただひたすらに有難くならせて頂く稽古をさしてもろうて、それこそ喜びに喜んでの日常生活が送れるようなおかげを頂きたい。
私は、この喜びに喜んでという信心になりませんとね。良い信心がでけておって、続いておって何十年続いておりますというても、例えば今日の九十九節という、苦に苦が重なるといったような時にもう一つの信心、もう一つで百という、云うなら満願のおかげとでも申しましょうか。お互いに願いに願っておるところの願いが成就するということはね。九十九という程しの信心が例えば出けておってもです、ね。
修行に修行がまあ重なるような信心修行させて頂いておってもです。もう一つこれに喜びに喜んでという信心がその内容に出けて来なければ、所謂満願的なおかげね。所謂九十九節から百節へ、百節にはね。祝い目出度の若松さまよ枝も栄える葉も繁るというではないか、金光大神はね、家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのぢゃ。という実に目出度い御理解ですよ、ね。
だからその百節になる為には、その九十九節をね。喜びを持って越えた時にはじめて、所謂神願成就、神の願いも成就する。私共の願いも成就する。家繁盛、子孫繁盛、枝も栄える葉も繁るというようなお徳と御信心が、子にも孫にも伝えて行けれる程しのものに成就して行くことだというふうに思うんです、ね。
だからどんな、その苦に苦が重なるといったような時でも、そこに喜びに喜んでという心の開けて来るという信心を開けんならんと私は思うですね。
%1昨日はでしたでしょうか善導寺の原さんが、ここでお届けをされます。前の日が丁度二十九日のお年よりばかりの会ですね。敬信会がございました。敬信会の中でも発表しておられましたが。もう原さんがお幾つでしょうか。七十幾つでしょうか。云うならばあのお年で、信心の悩みを持っておられるということを。私、お話を聞きながら素晴らしいと思ったですね。
%1皆さんもご承知のようにそれこそ元気一杯の御信心を何十年間続けておられます。もうそれこそ一年一年位が付いていっておられるだろうと思われるように、その内容が段々素晴らしくなって生きよんなさる。
%1もう最近では、先だってから矢部の山中で、ここの共励会が、矢部支部がある。矢部支部にお話に行かれた。また昨日、一昨日でしたか、玖珠のもうそれこそ山の中の山の中。私は行ったこともないのですけれども、あちらの共励会でしたから、やっぱ行っとられます。もう年なんか考えておられないようである。そして求めに求めておられる本当の信心というものにいつもその焦点を置いておられる。いつも信心の悩みを持っておられる。これで良いというものがない。もう本当に感心致します。
%1そしてまあこの頃、二、三日前の敬信会の時に、云うなら信心の悩みを発表の時話しておられましたが。その結果、その答えというのが昨日こう本当に分かっておるようで分かりませんでしたということについて。もうこれはくノ一修行で頂く以外はありませんとこう言っておられます、ね。
ここではくノ一会という会があります。伊藤さんを中心にして、もうそれこそ一切をくノ一である。くノ一と書いて女。女の云うならまあ忍者のことをくノ一と言うそうですけれども。もうそれこそ変幻自在、自由自在に自分の心をですね。有難い方へ有難い方へとね。修行の最高と仰りますもんね。
どんな場合でも、喜びに、それこそ自由自在に自分の心を喜びにという答えを出していくという生き方なんです。そりゃあまた、くノ一会に集まる方達は皆そのところに焦点を置いて信心の稽古をしておられるのにもまた感心しますけれども。もうあの、くノ一修行に極まったと言っておられるですね。
それで私、まあしかし有難いことだなあ。まあだ若いならともかくも、もうやんがて、なら八十にも近くなっておられるお婆さんがもう遠い近いぢゃない。その前の日はあの秋月の信徒会にも参加しておられます、ね。もうただ一途に有難うなりたいという。それでいて、ならそこに信心の悩みを持てるということが素晴らしい。そしてより高度な喜びを求めての信心修行である。
そして結論として、昨日のお届けぢゃないですけれども、もうくノ一修行に極まったというわけなんです、ね。どういう場合であっても、それをいかに喜びで受けるかという。そしたら神様から私は頂きます。そのことのお届けをさしてもらいよったら『喜び勇んで』ということを頂きました。喜びだけぢゃいかんですね。それに勇みがなからにゃあいかんです、ね。喜び勇んでというのです。信心にはこれが必要です。
私は今日はこれを九十九節という、もう云うなら苦に苦が重なる程しの修行というものが百の、所謂、満願的なおかげになる為には、どうでも信心の喜びだけぢゃなくて喜びに喜んで、それに勇みが付いてくるような心の状態が開けてこなけりゃあ駄目です。
G*%2私の修行中にも沢山なあっちこっちの借金。その借金ということがまあこれは、私がその借金の苦しみに悩んでおる。苦しんでおる時に、確かに昔の人がよう言うた「四百四病の病より、貧より辛いものはない」と言うが。もう本当に貧程辛いものはない。借金の断わり程辛いものはないということを、私は身を持って体験さして頂いたんですけれども。
G*%2ある時、それこそある日突然です。私の心の中に、それこそ借金の断わりがもう銀行に金でも預けに行くような喜びが、心の中に開けてきたです。借金の断わりに行くとに、それこそ重い足を引き摺るようにして断わりに行っておったのが。それこそ重い足を引き摺るようにして断わりに行っておったのが、もうそれこそ今日の御理解で言うと、喜びに喜んでということであろう。喜び勇んでとはこういう事であろうと思う。
G*%2それっきりでした。もう大坪さん嘘から嘘ばっかり言わんでん、もうこりぎりで来なさらんでよかですばいち。もうあなたがでけた時払うち下さいというような結果になって来たんですからね。確かに苦十苦の越える為にはそこんところのね。もう一段の信心がなされなければ私はいつまでたっても苦十苦で、よか信心が出来よりますというだけぢゃなくて、喜んでおりますだけぢゃあなくて喜びに勇みが伴わなければ、ここの百という峠は越えられない。
そういう信心はです。なら学問がなからなければ、智恵力がなからなければということではない。云うならば、此方は無学でも人が助かると教祖が仰っておられるようにです。こりゃあ私でもそうです。私も云うなら教祖様が、無学の百姓と仰るように、無学の商人(あきんど)です、ね。
その無学の商人である私の心の中にそういう喜びに喜んで、それが勇みが付く程しのおかげが頂けた時に、なら沢山な人が助かって来るようになって来た。
私は昨日は久富先生の五十日祭です。それに合祀のお祭りも併せてさして頂きましたが。もう本当に信心の力とか徳とかいうものは絶対残るもんだなあと思いましたね。
%3昨日お祭りを仕えさせて頂いて思いました。しかもこれは子にも孫にも伝わると言われるが本当に先生が生存中は子供達やら、その家族の者の信心がついてこなかったけれども。亡くなられたのを境にです。それこそあの十日十日の旬日祭が久富家で仕えられましたけれども。あのお祭りを仕えに行く先生達が帰って必ず言うことは、もう息子さん達が信心になって行かれるのに本当に有難いと思うというお届けを聞き続けて、昨日の五十日祭になりました。
%3で五十日祭はここで御信者の特別懇意であった方達にも御案内が行っとりましたから。昨日は大変まあなんて言うでしょうか。まあ厳粛で盛大な、それこそ何か喜び一杯での五十日祭でしたね。子供達が御直会の時にお相伴に出て参りましてから本当いうなら五十日祭ち言うなら、まあだこう悲しい涙が流れるようにあろうけれども、なんか涙がこぼれてしようがないけれども、その涙がね。親父がよろこんどるぢゃろうと思いますと言うんですよ。
%3だから喜びの涙だと言うんです、ね。成程先生が喜びに喜んでの信心の徳というものを子供達に残されたのだ。残していかれたなあというふうに思います。
%3昨日は、もう沢山お花を頂いたりいろんなお供えを頂いたりするたんびに、私が本当に先生が喜びよるぢゃろう、先生が喜びよるぢゃろうと、こう言うたり思うたりするたんびに、こちらに感動が湧いて参りました。
%3最後に、久富繁雄さんが、今日はお茶の御用をさして貰いたい。こういうお茶を霊様に差し上げますと言うて、その同じ一緒に入れられたお茶を私の方へ持ってみえられたんです。玉露を、素晴らしいお茶を入れておられました。私はそれを一口頂いた時に、もう何かこう突き上げて来るようなね、喜びを感じました。
%3本当に子供達が言うように。本当いうならば。悲しい涙でしょうけれども。普通ならば五十日位たった時ですからね。ところが本当に涙のこぼれるんです。お祭りを頂いておって、お話を頂いておっても。けれどもそれがその悲しい涙ぢゃなかったと言う。
%3昨日、丁度竹内先生が見えてお花をして下さったそうですが。ちょっと電気が暗いから見えない、後から見て下さい。ここにあの極楽鳥の花が入れてあります、お花に。もうそれがあの生きた、それこそ極楽鳥というのはこういう形をしておる。葉をこう羽ばたいて今にも飛び立とうとしておるような感じに活けてあるんです。
%3極楽世界からいよいよ今日の云うならば、正式にあの霊舎に鎮まられた。境に云うならば合楽世界への飛び立ちであったろうというふうにまあ申した事でございますけれども、ね。そりこそ飛び立つ思い、極楽世界ぢゃ有難いなあ、勿体ないなあという世界から神様も共に喜んで下さる。神様と合楽し会える世界に先生は飛び立ったんだなあ。
%3それこそ亡くなる前日まで、もうそれこそ、その日は丁度繁雄さんが見えとりませんでしたから朝から晩まで一日私の御用して下さって、もう本当にあの有難い有難いで、昨日お話しながら思ったんですけれども。丁度七十七でしたから喜の字祝いを一、二カ月前に子供達が皆集まってして、東京旅行までさしてもろうたというて大変喜んでおられて、喜の字の喜びの年なんですね。喜の字の祝いというのは、その喜びの年に、しかも喜びに喜んで。それこそ自分が倒れた時に奥さんが電話番号を間違えておられたら、合楽の電話は何番ぢゃがと言うて教えられて、それっきり意識が無くなったと言われる。
%3昨日、北野の関さんが、こげなお願いは毎日は出けませんからち言うてからお届けされましたのが。どうぞ人間は一度はお国替えのおかげ頂かにゃなりませんから、久富先生のようなお国替えが出来ますように今からお願い致しときますというお届けがありました。
%3もう聞けば聞く程ですね。云うならばこういうお国替えが出けるということは素晴らしい。そしてまあ云うなら先生も心配であっただろう子供達の信心がこう継承されようとしておる、ね。喜びに喜んでの信心。
今日は皆さんも、なら誰でん、も、合楽ではね一切神愛という生き方ですからそこにお礼を申し上げんならん。だから不合格であっても不合格御礼とね。二、三日前頂いた御理解のようにお礼が出けるのですけれども。これは合楽で日頃習っておる、不合格であってもやっぱお礼を申し上げんならんから不合格のお礼を申し上げておるのであって。その真偽を言うたら本当は云うなら合格しとる方が良かったばってんというごたるもんがありゃせんでしょうか。
いや喜んで、例えばおるとしても、喜びに勇みがついておったでしょうか、ね。原さんのそのもうくノ一修行に極まったということは、どういうことかと言うと、もう自由自在に自分の心を有難いという答えを出していく事に喜びを感じるだけぢゃなくて。それこそ極楽鳥が極楽世界から合楽世界に飛躍していく時のような勢いがです。喜びがですね、喜びが出けて初めて合楽世界に住めれるんだと。
九十九と言われるように、苦に苦が重なるような中にあってもです。そこに喜びに勇みが、喜び勇んでという信心が出けた時に。云うなら神の願い氏子の願いが一時に成就するね。百という峠を越えるためには、どうしてもその喜びに伴のうところの勇みが必要であるということを今日は私は思いました、ね。
昨日、石田先生夫婦がここで毎日お届けなされますのに。お医者さんですから、それこそまあ、あらゆる手立てをなさったんでしょうけれども。皮膚癌で何十年間難儀し続けたのが。それこそ願いもせん、頼みもせんのにいつの間にかおかげを受けておったというお礼のお届けが昨日ございました、ね。
それこそあの奥さんの話を聞きますと、もう三時になったぞ、もう親先生の御祈念が始まるぞというふうで兎に角合楽通いが。先生がここでいつもお届けされる内容を言うとですね。もうなんというですか、目が覚めたようなと言われます、毎日、ね。目が覚めたような、所謂、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ。あらゆる高度な学問もなさった。技術も身に付けられた。けれども信心ということは分からなかった。そしてこの信心がです。この真の信心が人間幸福の一切の根本になるものだといったような所が分かりかけておられる。
日々頂く御理解がされこそ、もの珍しいというだけぢゃなくて有難く血肉になっていっておられるものを、毎日ここで感じるような気が致します、ね。そこには願いとか頼みとかぢゃなくて、もう神様の方がこの願わんでもおかげ下さるということが分かるでしょう、ね。
もう朝の御祈念のお参りが楽しゅうして、それこそ喜びに喜び、勇みに勇んでの心の状態。勿論これが段々育って行かなければなりませんです、ね。そういう信心が、私はなされて初めてですね。神願成就のおかげ、神様の願い、氏子の願いが成就するような、云うなら九十九節から苦に苦が重なるような修行の中からね百節。目出度目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか、金光大神はその家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのぢゃ。と教えられるのですから、そういう道を体得して行くということ。これが子に孫に伝わっていかないはずがない。と思われる、言われるだけの信心をいよいよ身に付けて行きたい。どうぞ。